2010.03.10 Wednesday 03:12

実の父の死を知人からの電話で知るという悲劇

父が亡くなりました。

いえ、正確には、2010年1月17日に亡くなったそうです。

その事実は、2010年2月22日の朝刊のお悔やみ欄に掲載されていたそうです。

その日の午前中、新聞をとっていない我が家のもとに教会の方から電話が来て、電話をとった母が床にへたりこんで力なく返事をしていたのを見たとき、直感的に父に何かが起きたと感じました。つまり私は、実の父親の死を、この電話で知ることになったわけです。

しかも、父はそのとき、この世を去ってすでに1ヶ月以上も経っていました・・・。

両親は10年以上前に離婚し、父は再婚していました。その再婚相手が父を看取ったことになるのでしょうが、実際はどんな状況で父が息を引き取り、どんな葬儀をしたのか未だすべてが闇の中です。血のつながった娘である私にも、息子である弟にも一切、なんの連絡もありませんでした。いや、今日現在もまだ連絡がありません。

こんなことってあり得るでしょうか。人間として、親の死に目に会えないことがどれほど無念なことか・・・どんなに生前いがみあっていたとしても、親の死を前に改心する人の話をよく聞きます。ましてや、こちらから親子の縁を切った事実もなく、いつもどうしているか気にかけていた父親です。心情的に葬儀に出て欲しくない気持ちを百歩譲って認めるとしても、亡くなったことを知らせないという判断に対しては、ただただ怒りしかありません。

そう、今の私を支配する感情は親を亡くした悲しみや寂しさではなく、再婚相手への「怒り」です。これは今回のことだけでなく、今までの積み重ねの結果です。父の死は、まったくリアリティもなく信じられませんし、たとえ亡くなったことが真実だとしても到底受け止められるものではなく、悲しみの感情に行き着かないのです。どうしたらこの怒りがおさまって、ただ静かに父の死を悼むことができるのでしょうか。復讐や報復という言葉が脳裏をかすめますが、そんなことを父が望むわけもないし、大切な自分の人生を棒にふるつもりもありません。

親の死を知らされなかったという精神的苦痛を訴えることも可能だと、友人が教えてくれました。遺産をめぐる問題点についても、専門家のアドバイスをもらう準備はできてます。でも、お金がかかることならば、自分の生活を恐してまで取り組むことはできないし、たとえ裁判をしてこちらの言い分が通ったところで、決して気が晴れることはないと思うのです。


私が行き着く方向も結論も、今の段階ではまったくわかりません。それでも私は生きなくてはならない。毎日、忙しく仕事をしていることで救われているのは事実です。こんな精神状態の私が、別の誰かの心配をしなくてはならない状況も幸いなことです。そうやって人は人と支え合って生きていくのでしょう。ほんのささいな声かけでも、たった一言のメールでも、前を向いて生きる勇気の素になります。まわりの人の優しさを、いつも以上に敏感に感じる毎日です。

不眠症になりそうな精神状態の夜に、メンデルスゾーンの「イタリア」と「スコットランド」が子守唄のかわりをしてくれています。どちらも昔、アマオケで格闘した大好きな楽曲です。アーノンクールの指揮で聴きたいとネットで注文したのがことごとく品切れで、結局アバドになりました。何度聴いても名曲だと思います。今夜もまた夢の中でヨーロッパ旅行に出かけることにします。

おやすみなさい。
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